画鋲の摘む部分も、実は取っ手だった。
長い間気がついてあげられなくてごめん、画鋲の取っ手よ。
6月28日、拙ブログ「世界は取っ手であふれてる」が満4歳となった。
上の子はあと数ヶ月で満4歳なのだが、思い返すと、
妻が妊娠中にもかかわらず僕はせっせとブログを、しかも、取っ手(!)のブログを書いていた事になり、
そのころの自分には「暇なのは今だけだよ…」と言っておきたい気持ちになるし、
つわり中だった妻には大変申し訳なく思ったりもするが、
とにかく、4年が経ったのだ。
取っ手の面白いところは、
毎日触れているのに、あまりに近すぎて、その存在を忘れている点にあると思う。
人が手にする物体であれば、そこには必ず「取っ手」が存在し、
ドアやマグカップはもちろん、例えば、「ピザ」「本」「卵」なんかにも、
およそ全てのものに取っ手と呼ぶべき「持つのに最も都合のいい部分」が存在すると考えている。
そして各人の経験から、その物体の最も持ちやすい部分を、無意識のうちに判断してしまっている。
それに気がついてしまうと、物を持つたびに「取っ手」について考えてしまい、
普段の生活では見ること、考えることをかなり端折ってしまっていることに気付かされる。
例えば僕が「卵」を持つなら、細い方を摘んだりせず、最も円周の大きな部分をそっと持ち上げるだろうけれど、
他の人は全く違う持ち方をするかもしれない。
同じ物でも、みんなの「取っ手」が違う。
もうすぐ1歳になる息子を見ていると、
初めは上手く食べられなかったお菓子も、最近では結構上手に摘んでモグモグやっている。
彼なりの取っ手が、彼の中に確実に出来上がっているのを見ると、愛おしさも倍増である。
何だか親バカブログになってしまったが、
とにかく、4年って結構長くて自分でもびっくり、今後も楽しく取っ手と触れ合っていきたい所存である。